8月15日終戦から70年 セブから改めて平和を祈る


1509heiwa01258月15日終戦から70年 セブから改めて平和を祈る

1945年8月15日。多くの尊い命が犠牲になった太平洋戦争の終結から、70年の節目を迎えた。
戦後70年、多くの犠牲者の上に、今の平和な日本がある事を再自覚するよい節目であるとも言えます。
終戦の日(8月15日)、セブ市内マルコポーロプラザホテル内にあるセブ観音像では、毎年セブ観音戦没者慰霊祭が行われています。
70年という節目、例年より多くの参列者がお参りに参加されました。

セブで何があったのか、今一度最確認するいい機会ではないでしょうか。

*写真右のセブ観音像は、1983年5月マルコポーロプラザホテル駐車場奥に祀られました。創建者は元セブ海軍部隊司令官の故岡田貞寛元少佐である。


 

70年前のレイテ、セブの戦い

石田 武司(セブ日本人会 前会長)

戦前の日本は世界情勢の中で経済封鎖により燃料、原料資材が絶たれた為、日本は
1509heiwa01昭和16年12月8日(1941年)ハワイ真珠湾攻撃から開戦、マレー半島の上陸、グアム島、ウェーク島を占領した
マニラは1942年1月米国より開放されたので一般市民からは大いに歓迎された。
戦前東南アジアは西欧諸国の植民地であったが、日本軍の進出と快進撃でシンガポール、インドネシア、インド、カンボジアを占領してアジア諸国を開放した。そして今日それぞれのアジア諸国は独立国となり現在に至っている。

◆◇ レイテの戦い ◇◆
翌1943年日本軍は、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされパラオ、ペリリューを敗戦、フィリピンのレイテ島に連合艦隊450隻が向い、日本軍は本土防衛上レイテは天王山と称して死守を命じ物資欠乏の中、自給自足で最後の一兵たりとも戦闘せよと命じられ8万4千の増兵を送り込み7万9千の兵士が、「家族のため」「国のため」と若い命が捧げられた。第14方面軍司令官山下奉文大将はマニラに赴任するやレイテの決戦は誤りでありマニラ湾の沈没した軍艦マニラ埠頭の滞貨などを見てレイテ死守の誤りを大本営に強く具申したが受理されなかった。
1944年10月20日午前7時レイテ湾より艦砲射撃が一斉に火を噴きレイテ開戦が始まり対峙する日本兵2万5千は蛸壺の完成を半端にして戦った。連合艦隊450隻その他輸送船300隻となった巨大な船団がレイテ湾に突入して第二次大戦中最も激しい戦場となった。大本営は中国より精鋭部隊関東軍を6万の兵を投入した。補充された兵士は、敗戦色で転進の号令が飛び交い100キロ先のカンギポット山に結集との命令で山脈を越え苦難の末到着した兵士約8千、食糧事情もむなしく一部の高級幹部がセブに転出、残ったものは集団自決や切り込隊となって今もその遺骨を残している。この過酷な戦闘からレイテにはおよそ30箇所の慰霊碑があり、木製、木柱は朽ち果て、消滅したが石造りの立派な石碑は今では遺族会も消滅して草木をかぶっている。1509heiwa012

◆◇ セブの戦い ◇◆
セブには陸軍抜兵団長福栄陸軍中将の兵7千3百名と原田海軍少将の指揮する5千2百名レイテより転進した玉兵団片岡陸軍中将2千名の合計1万4千の兵力が分散していた。
翌1945年3月26日セブにアーノルド少将率いる1万2千がタリサイ海岸に上陸し、海岸に対峙する2千5百の日本兵と死闘の激戦があったが、2週間ほどで惨敗。ラホグの中腹の日の丸陣地では書類を焼却し山中タブナンに転進した。

みなさんご存知でしょうか、セブ中心のフエンテオスメニアにあるビンセンテソット(Vicente Sotto)病院の裏手には陸軍野戦病院がその当時あり、病院長眞田武雄中佐軍医、医師看護婦従事者4百5十名、患者数8百名を擁していたことを。しかし戦況悪化によりマンダウエ、ダナオ、タブエランへと移転した。無念ながら重症患者、歩行困難者は自決、歩ける者は本隊に復帰8月18日セブの北部タブエランで解除となった。
1977年3月10日この病院では多数の死者をだし、戦後32年戦友遺族団により慰霊碑が建立された。
近年では慰霊碑は色あせて周りの柵は破損しお地蔵様は台座から落ちてみるに忍びない状況でしたが、昨年修復計画をしていたところJYMA(日本青年遺骨集団)の方が費用の
半分を捻出下さることになり、更にカンボジアの援助をしている平古場正行様の援助を頂き本年3月病院に申請、7月工事完了し折りしも8月15日午前11時30分より竣工法要を2十数名の方と執り行うことが出来ました。
その他の慰霊碑は、その中心となるセブ島観音そしてサンペドロ要塞の一角にセブ市の管理する立派な慰霊碑が存在する、セブのダナオの先のカトモンには墓石、タブエランには石碑と墓石があるまた慰霊するべき所はタリサイ旧市役所裏手の海岸が大勢の命が失われた。もう一つはブサイのタブナンに転進(敗走)日本軍の本部を移設した所なれど現状は雑木林と草地で間単には入れず慰霊もできない。

◆◇ 学徒出陣とリロアン ◇◆
1943年昭和18年10月2日戦況悪化から勅令により学生でも徴兵猶予が停止された同年10月21日明治神宮外苑には学徒出陣の2万5千の学生と見送る女子学生及び後輩関係者5万人77大学より雨天の中集結された。このうち4百名がリロアンの船舶工兵隊で教育隊暁6142部隊に入隊し、小型船舶の“大発“を中心に構造機関を連日教育特訓していたが、ほとんどの学生が文系であり苦慮していたようである。4ヶ月ほどで幹部候補生試験に合格すれば広島に戻り更に高等訓練を受け将校となれる。この試験に残念ながらA型パラチフス、高熱、または事故など起こした者はその時期を失いレイテ配属、カモテス配属になった下士官待遇の元学生諸君の苦難が始まった。ほんの僅かな生存者がその手記を綴っている。